3月7日、大阪府河内長野市にある「ふるさと歴史学習館」に行ってきました。
市内の民俗資料や出土品、再現ジオラマなどを展示する施設で、森林と川に恵まれ、また高野街道の合流点でもある河内長野市の歴史を知ることができます。
古墳時代のコーナーには、大師山古墳、三日市古墳群、小塩遺跡(複合遺跡)の出土品がありました。
大師山古墳は古墳時代前期の前方後円墳です。河内の前期古墳についてはほぼ知らないので、家に帰ってから関西大学文学部考古学研究室による『河内長野大師山』の大師山古墳のところ(第2章)を読んでみたら、木棺片にかかわる話がおもしろかったので書いてみます。
( 『河内長野大師山』は全国遺跡報告総覧からダウンロードできます)
昭和5年。
南河内郡三日市村(当時)の通称大師山と呼ばれる丘陵に、大師堂を再建することになりました。その地ならし工事中に、遺物が出てきたのです。
届け出により昭和6年1月から大阪府が調査することになりました。
この場所は、それ以前にも相撲場をつくったり、踊り場にしたりして形が変わっていたうえ、地ならし工事によって墳丘のほどんどが削られていました。
そんな状態でしたが、朱に染まった粘土層が残っており、粘土の下に木片もみつかりました。この木片は木棺の一部であると考えられました。
調査の結果、古墳は円形と推定され、以後、粘土槨をもった円墳として知られることになります。
このとき出土した遺物のうち、内行花文鏡、管玉、車輪石、鍬形石、紡錘車、石釧は東京国立博物館に保管されました。
木棺片はどうなったのでしょう・・・?
時は流れ・・・
昭和43年、大師山古墳を含む地域で宅地造成工事が行われることになったため、試掘調査ののち、昭和44年10月から本格調査がはじまりました。
調査団が現地を訪れてみると、平らにされた尾根に、記念碑と古墳模型があるだけでした。
トレンチを掘り土層を調べていくと、削られた墳丘が斜面に捨てられ堆積していることがわかりました。
調査をすすめていくと、くびれ部とそこから直線的に延びているところがあることが判明し、前方後円墳であることを確認しました。
作業のなかで、遺物もみつかっていきます。埴輪片も出土し、墳丘に埴輪が並べられていたこともわかりました。
古墳模型のある場所も調査するため、模型を壊すことにしました。
表面に貼られた石とコンクリートを除くと、湿った土と赤色顔料の付いた粘土が出てきました。それをどけるとそこにはコンクリートの塊がありました。
叩いてみると中は空洞のようです。
蓋の部分をはずしてみると水が張られていて、その中にあったのは、木棺片と布にくるまれた石製品でした。
約40年前の調査で出土した遺物が再埋納されていたのです。
これにより木棺片を再び調べることができました。ゆるやかにわん曲していることから割竹形木棺と考えられ、木材は高野槙だとわかりました。
再埋納されたいきさつについては書いてなかったのでわかりません。なのでかえって想像をめぐらせてしまいます。
保存状態は良くなかったということですが、わざわざコンクリートの箱をつくって水につけておいたということは、木棺片をそのままの形で保存しようという気持ちがあったはずです。
でもそれを土で覆い古墳模型として封印してしまう。
そんなことをしたら、もう誰も見ることはできず、忘れ去られてしまうかもしれないのに。
遺物に対してとか、葬られていた人に対してとか、調査の人や地元の人たちのいろんな想いがこのような形になったのかな、と思います。