前回の記事で保留にしていた堺市博物館の展示品、七観山古墳出土の金銅製帯金具の復元品です。
これとそっくりなものをYouTubeの動画で見たような気がしたのですが、もしそうならこの透かし彫りの文様には龍が描かれているはずなので、確かめようと思ったのです。
動画を確認してみたところ、ズバリこの帯金具が新羅系の龍文透彫帯金具として紹介されていました。
それでじーっくり見てみると・・・龍・・・いるような気がする!けど自信がないので、何か参考になるものはないかとあれこれ検索してみました。
他の龍文透彫の遺物を参考にすると、直線的なところが歯でその近くの丸いのが目、点々が並んでいるのが胴ではないかな?点々は途切れているので、その先は脚かも。
ツノとかツメとかまで表現されているらしいのですが、そこまではわかりませんでした。
帯金具については以上です。
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企画展「ハニワ大解剖」で展示されていた埴輪をもとに、もうひとネタ書きたくなってしまったので続けます。
寛弘寺17号墳(南河内郡河南町)出土の「女の人の埴輪」です。
祭祀の場面かもしれませんが、器を持った姿が、雄朝津間稚子宿禰天皇(おあさづまわくごのすくねのすめらみこと、允恭天皇)の即位の話のイメージにあうな~、と思ったので書いてみたいと思います。
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雄朝津間稚子宿禰皇子は、幼いころから思いやりがあり控えめな方でしたが、成人してから重い病気にかかり、挙止に不自由がありました。
兄の瑞歯別天皇(反正天皇)がなくなったので、群臣に天皇になるよう求められます。
皇子は、病気であることや、かつて病気を治そうと体を傷つけたことで父(仁徳天皇)に責められ「おまえは皇位につくことはできない」と言われたことから、自分は天皇にはふさわしくないと辞退します。
群臣は再度お願いしますが、皇子はなおも辞退し、空位のまま日々が過ぎました。
妃の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は、群臣が困っているのをみて、なんとかしなければと思い、みずから手洗水を持って、皇子の前に進み出て「どうか、帝位におつきになってください」と言いました。
皇子は聞き入れず、背を向けて、黙り込んでしまいました。
大中姫はそのままそこにいて、1時間あまりが過ぎました。
晩冬のことで、風が強く寒い日でした。捧げていた”まり(金偏に宛)”の水が溢れて、腕の上で凍りました。
皇子はふり返って、大中姫が寒さに堪えられず死にそうになっているのに気付き、すぐに扶け起こして、「群臣の願いを聞き入れよう」と言ったのでした。
かくして、皇子は天皇となり、大中姫を皇后に立てました。
その後、新羅によい医者を求め、治療してもらい、天皇の病気はよくなりました。
めでたし、めでたし。
と、言いたいところですが、
元気になったらなったで・・・
天皇は皇后の妹の弟姫(おとひめ)に夢中になってしまいます。
皇后が7人目の子を出産する夜に、天皇は弟姫のいる藤原宮へ行ってしまいました。
皇后はそれを聞いて、
「はじめて髪を結い、後宮にはべるようになってから、長い間お仕えしてきました。それなのに、いま私がお産で生きるか死ぬかというときに行ってしまうなんて、ひどい!」と言って、産殿を焼いて死のうとしました。
天皇はそれを知って、「私がまちがっていた」と皇后を慰め、あれこれ言ってご機嫌をとりました。
このとき生まれたのが、大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)、後の大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけ(る)のすめらみこと、雄略天皇)です。
大泊瀬皇子は、父とは違い、自力で帝位を取りにいくのですが、それはまた別のお話。
<ネタ元>井上光貞 監訳/川副武胤、佐伯有清 訳「日本書紀(上)」中公文庫
4月のなかばに「日本書紀」を上・下いっしょに買って、寝る前に時間のあるときボチボチ読んでいます。すぐ眠くなってしまうので、なかなか読み進めません。いつしか睡眠導入本になってしまった感さえあります。やっと天武天皇の巻。虎に翼をつけて放しました。